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対談:神津朝夫×根本知(前編)          

連載の最後に、茶の湯研究家である神津朝夫先生にオンラインでお話を伺いました。


「茶の湯=禅」は本当か


神津先生(以下、神):はじめまして。


根本(以下、知):はじめまして。この連載を立ち上げた時、参考にさせていただいたのが先生のいくつかのご著書でした。「ひとうたの茶席」では、それらで論じられている茶の湯と連歌の関係を起点に、自身の研究とも合わせながら、利休の時代から古今和歌集まで、和歌とともに時代を遡っていきました。まずは研究の背景からお話いただけますでしょうか。



神:私はもともと奈良が好きで、史跡や仏教美術に興味を持ち、学生時代は奈良の寺社や遺跡をよく巡っていました。万葉集や、奈良の仏教美術と関わりの深い書家、会津八一の和歌も愛唱していました。

ただ、だんだんと、仏教美術は自分では専門家の本を読むだけでなにもできないことにもどかしさを感じるようになりました。仏像は寺や美術館の中にあって、素人が自分で独自の調査研究をすることは難しいですよね。


そうこうしているうちに、お茶に興味を持つきっかけがありました。お茶は建築・陶器・金工・掛物・漆芸・飲食など様々な文化を含んでいる。さらには、奈良文化と同様に国際的な性格があって、お茶会で道具を手に取って触ることまでできる。自分でもお茶を習い始めて、そういう面白さに気づき、夢中になりました。


歴史にも興味を持って調べていくうち、最初に疑問に思ったのは「武野紹鴎はわび茶をしていたのか」ということです。この疑問が、「茶の湯=禅」と言われる、現代の茶の湯の理解そのものへの疑問につながっていきました。


知:武野紹鷗は、茶道のお稽古で利休の師匠として教わる人ですね。連載では、「見渡せば 花も紅葉もなかりけり 浦の苫屋の秋の夕暮れ」の歌とともに、初めて和歌を茶席に掛けた人として紹介しました。


神:そうですね。武野紹鷗は堺の豪商で、連歌に関心をもつ茶人でもありました。利休の茶の湯のスタイルに大きく影響を与えた人とされています。ですが調べていくうちに、この人は利休の主張した、道具にこだわらず精神性を重視する「わび茶」ではなく、まったく道具重視の茶だったと思うようになりました。連歌の美意識を理解していたとしても、茶の湯にそれを反映するところまでは至っていなかったのです。その視点が、利休の一番弟子が書いた、信頼性の高い『山上宗二記』で、利休の師が辻玄哉(つじ げんさい)という連歌師になっていることの発見につながりました。今はもう茶道文化検定のテキストでも、利休の師を紹鴎とする記述は消されています。



知:「ひとうたの茶席」では、辻玄哉と利休の師弟関係をもとに、その系譜に従って歌を取り上げていきました。


神:私もたいへん興味深く読ませていただきました。利休の師が辻玄哉という連歌師であったこと、現在伝えられている利休のわび茶像はずいぶん違うのではないか、ということを書いたのが『千利休の「わび」とはなにか』でした。その後『茶の湯の歴史』を書いて、最近文庫化した際に、さらにもう一歩踏み込んで、茶の湯の思想は禅からではなく、日本古来の和歌・連歌の思想から来ていることをはっきり主張しました。


もし茶の湯が禅だと言うのなら、禅のおおもとである中国に侘びの美意識があるはずなのに、それがまったくないではないか。唐絵をかけ、油滴天目だの青磁というのが禅の美術で、今わび茶と言われている美意識は、日本の伝統的な思想に基づくと考える方が自然なのではないか、ということをやや挑発的に書きました。


知:大変面白い説だと拝読しました。


神:法華宗の人々が利休以前にも盛んにお茶をやっていて、名物道具を多数持っていました。辻玄哉も法華宗でした。高山右近のようなキリシタンの茶人もいましたし、当時は茶の湯と禅のつながりが、ことさらに強調されることはなかったと思います。


珠光や武野紹鴎では、連歌の思想が背景とされるのに、その弟子とされた利休の話になると、急に禅の話になってしまう。実は以前から、村井康彦先生がそのことを気にしておられました。個人的にうかがったことなので、何も書いてはおられないと思いますが。


武野紹鴎と利休の間に辻玄哉という存在があったこと、またそこから見えてくる連歌の美意識に注目したことで、「茶の湯=禅」ではないわび茶の姿、そして歴史のつながりが再整理できました。若い人は納得してくれるのですが、私より歳上の人には、すんなりとは受け入れられない主張でしょう。その人たちが今まで散々聞いてきたわび茶論、利休論はなんだったのかという話になりますから。


茶の湯のなかの「書」


知:僕が茶の湯における書を学びたいのは、そこにある思想を知りたいからです。そこから日本人の美意識や工芸技術・芸術性を合わせ飲む、茶の湯という恐ろしく大きな器のことも理解していきたいと思っています。茶の湯のなかの書について、お話いただけますか。


神:茶の湯の掛物は、利休の頃、金持ちは唐絵を掛けて、そうでない人は詩画一致とされる漢詩(偈)を代わりに掛けた、というところから始まったのでしょう。それを眺めて、あるいは読んで「俗を離れる」心境になろうとしたのです。そういう意味では、同じように情景を表現する和歌を掛けた、というのは筋が通る話です。


それからお茶の世界では、書いた人の徳を慕って掛けるということも言われます。字の上手い下手は別として、高僧の書がありがたがられる。


知:平安の古筆には書き手の落款を記したものはひとつもありません。自分が書いた、というような主張よりも、あくまでも歌を伝えることが重要でした。そういった意味では書き手よりも、歌そのものを重視して掛けられたのだと思います。



神:確かにそうですね。茶の湯では、利休以前の時代の墨跡は中国の高僧のオリジナルの言葉でした。それなら作家の自筆原稿と同じで、字の巧拙は問題になりません。ところが利休より後になると、有名な禅の公案(禅宗の修行僧が参究する課題)などを禅僧に書いてもらって掛けるようになりました。それをもっとも縮めたのが、今の禅語の一行物です。どれも上手に書かれています。そうした歴史を辿ってみると、今茶席で茶人が鑑賞しているのは、内容を見ているのか、書き手の徳を見ているのか、書の巧拙を見ているのか、よく分からなくなっているところがあります。このことは一度、茶人が考えてみるべきことでしょう。


知:今の茶の湯の決まりごとでは、茶席に書家の書を掛ける、ということはまずありません。ですからはじめにメンバーとこの企画について話し合った時、まず「お茶室を離れたい」ということを伝えました。お茶室を離れ、床の間も和室も持たないような現代のしつらえにおいて、新しい提案ができないか。表具もリビングにかけられるということを意識してデザインしてもらいました。



神:たしかに書家の書を茶席で用いるということは、まずありません。しかし、近代の財界数寄者が茶席にもちこんだ古筆切は、誰の筆がわからないものが多いですね。それだと書き手の人格の問題ではなくなります。その書き手だった公家は、書の名手として依頼されて書いたのですから、書家としての一面もあったといえそうです。書家の物はダメ、とする根拠がなくなっていますね。


今回改めて考えたのですが、茶碗や棗などの道具は現代作家の作品、その作意を認めているのに、掛物だけは現代作家の作品を認めないというのも不思議な気がします。「道具の中でも書は特別に精神性を示すものだから・・」と茶人は説明するでしょうが、それは今述べたように、書かれた内容の問題です。利休だって自分に身近な作家や禅僧にいろいろ頼んで、その作品を使っていたのですから、今の時代のクリエイティブな書や表具があっていいのではないか。ただしそれには、もうひとつ工夫がいるとは思います。やはり実用的な道具とは違うので、掛ければいいというものではなさそうです。


ただ、茶の掛物についての通説の場合でも、集まる人や会の主旨に合わせて、主客の心が一致できるものを掛けるのが基本です。たとえば、日本のお茶人の中には、創価学会の人もたくさんいるはずです。そういう人たちにとっては、大徳寺のお坊さんの書より、池田大作氏の言葉や書の方がしっくりくるはずでしょう。こういう例を出すと嫌がる人がいるでしょうが、たとえばクリスマス茶会で、聖書の一篇などを掛けることは、実際にもう行われ、容認されているわけです。


お茶を世界に広めて行こうとするなら、イスラム教やヒンズー教の人にも禅語一辺倒で、ということにはならないでしょう。今の日本の茶の湯の形とは少し変化した形で広がっていかなくては、本当の意味で、お茶が普遍性をもって広がることにならないと思うのです。



(文 山平昌子)


後編に続きます。

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