なかなか再開のお知らせができないうちに、春を迎えました。はじまりの勢いに助けられた1年目と異なり、意識して足元を固めなければいけないような気がして、メンバーと何度も話し合いながら、準備を進めて参りました。
2年め前半のテーマは俳諧。松尾芭蕉を取り上げます。平安時代から続く連歌が、江戸時代に庶民の文化として花開いたものを俳諧、明治になり正岡子規が再度体系化した後の形式を俳句と言うそうです。子規と同郷の私としては、俳句まで取り上げたい気持ちはあるものの、まずは俳諧から始めることといたしました。詳しいお話は根本さんにお任せしますが、ここで検討の中で教えていただいた、芭蕉「笈の小文」からの一文をご紹介したいと思います。
西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、利休が茶における、其貫道する物は一なり。
天才的な才覚を持った芭蕉が俳諧を通じて知った、どんな分野にも通じる真理のことを示しているのでしょう。ただその前文を読んでみると、私がそれまで抱いていた印象と異なる芭蕉の姿が見えて来ます。少し長くなりますが、取り上げてみましょう。
百骸九竅の中に物有。かりに名付て風羅坊といふ。誠にうすものゝかぜに破れやすからん事をいふにやあらむ。かれ狂句を好むこと久し。終に生涯のはかりごとゝなす。ある時は倦で放擲せん事をおもひ、ある時はすゝむで人にかたむ事をほこり、是非胸中にたゝかふて、是が為に身安からず。しばらく身を立む事をねがへども、これが為にさへられ、暫ク学で愚を暁ン事をおもへども、是が為に破られ、つゐに無能無芸にして唯此一筋に繋る。
私の体の中に、何かがいる。仮にこれを風羅坊と呼ぼう。風に破れやすい薄い衣のような気性の坊主とでも言おうか。彼は、長らく俳諧を好んでいる。しまいには生涯をかけて取り組むこととした。ある時は飽きて投げ出そうと思い、ある時は人に勝って誇ろうとし、気持ちを決めかねて、心が休まることがない。立身出世を願ったこともあったが、俳諧のために遮られ、学問で自分の愚かさを悟ろうともしたが、また俳諧のために破られた。そしてついに無能無芸のまま、俳諧一筋をつらぬくこととなった。(山平訳)
時に不条理なほどの強さで俳諧に導かれた、芭蕉の道程が伝わってきます。改めてはじめに取り上げた一文を読むと、「貫道する一」は、卓越した才を持つ人の透徹した境地を示すだけでなく、自らの意図を超えた力に導かれたような動機と厳しい道のりをも含む、重厚な「一」であるのだ、と心を打たれました。
ある種の人々は何かに理由なく導かれ、人生を定められるのかもしれません。そのうち運の良い幾人かにとっては、いずれその存在が、あらゆる分野に通用する真髄を知るための手段ともなるのでしょう。
外の世界に目を転じれば、私たちを取り巻く環境は、この企画を始めた2020年9月よりさらに、混迷を深めているようです。この状況を平安な地平に着地させる可能性の不確かさを思うと、絶望的な気持ちになることもあります。一方で、そのわずかな可能性は、同時代を生きる無数の風羅坊たちの極めて個人的で、一見無秩序な歩みの先に開けていくのではないか。全く理由なく、そんな風に考えることがあるのです。
「ひとうたの茶席」を創る書家・表具師・華道家・写真家の4人はまさに、内なる風羅坊に導かれて進む表現者たちです。彼らがこの企画を機会のひとつとしながら進む道のりが、本人たちも知らないうちにこの難局を切り開く力ともなり、さらに遠い将来、それが西行の、宗祇の、雪舟の、利休の、そして芭蕉の「一」に通じていたと知る日が来るのかもしれません。今、私はそんな夢を見ています。
常に真剣を携えているような心持ちで、でも晴れやかに、軽やかに。
2年目の私たちの歩みをどうぞ見守って頂けますよう、心よりお願い申し上げます。
2022年 春分
ひとうたの茶席 発起人
山平 昌子
二年目の第一首は、2022年3月26日(土)に公開予定です。
<お知らせ>
欲しい茶室を夢想する、気軽なスピンオフ企画も始まっています。
こちらも合わせてお楽しみください。
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