昨年の「ひとうたの茶席」は、利休から古今和歌集の時代まで、利休の師弟関係を追いながら、和歌を通して茶の心を理解しようという試みでした。あらためて一年の連載を終えて振り返ってみると、私が辿ってきた道は、日本文学の根底となる哲学思想にも通じる道筋であったのではないかと感じています。
私は一時期西洋哲学に憧憬し、それが近代日本思想の礎となったことにある種の、嫉妬の念を持っていました。なぜなら私の専門である平安のかな書道が、西洋哲学をもとにした現代の価値観の中では、日本懐古主義、あるいは好古趣味にすぎないもののように感じられたからです。しかし、博士課程に進むなかで、現代の私が日本文学を真に理解するには、西洋哲学にも通ずる思考性が必要なのだと気付かされます。そして昨年の本連載では、その思考性をより深く体感することとなりました。たとえば人それぞれの経験に由来する感情の発露である「あはれ」を、「もののあはれ」と転換することで客観化・一般化する道筋からは、西洋哲学の思考の道筋と同様の手法を見てとることができました。
哲学というのは、常に今を照らすためにあります。そうであるならば、日本文学の思想を礎として、時代に合った表現を試みた人物はいないだろうか。そう思って、さらに時代をくだっていったところ、松尾芭蕉という人物に行き当たりました。「奥の細道」で知られる彼は、旅と俳諧を好んだ人物として知られています。しかし実際は、それまでの和歌の歴史と成り立ちを充分に理解した上で、「俳諧」という手法を取りながら江戸時代の人々にも受け入れやすい形で表現した、日本文学史において重要な位置付けを持った人物であることが分かってきました。芭蕉はあくまで「うた」によってそれを示し、けっして理論を提示することはありませんでしたが、彼の思想は弟子たちによって考察され、まとめられていきました。現代の視点から再びその歴史に目を向けてみると、結果的に彼の存在は、平安と江戸、現代をつなぐかなめのような役割を果たしているように感じられます。
新たな連載では、このような歴史的位置付けを踏まえながら、松尾芭蕉の視点を追っていきます。現代の私は芭蕉の足跡に、さらに明治以降の西洋哲学を基礎とした現代の感覚を持つ書道家としての視点を加えることになるでしょう。日本文学の歴史の上に、今という時空から小さな一考察を加え、先の世代に理解しやすいかたちで受け渡すことができたら、これ以上の喜びはありません。
芭蕉は、大変な茶好きで茶で染めた羽織を着、門人たちと茶を嗜んだようです。一説に当時茶染めの羽織と言えば芭蕉を指したと言われるほど、芭蕉のお茶好きは公知のものでした。歴史上の茶人たちは時に「俳味」という言葉を口にします。道は違えど、もしかしたら茶の湯と俳諧には共通する心があるのかもしれません。今回の連載でも、茶の風景とともに、芭蕉の眼差しを追っていきたいと思います。
書家・書道学博士 根本 知
※二年目の第一首は、2022年3月26日(土)に公開予定です。
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