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月ひとつ

天の原ふりさけ見れば春日なる 三笠の山にいでし月かも

−阿倍仲麻呂



天のはるか遠くを仰ぎ見れば、月がのぼっている。あの月はきっと、奈良の春日の三笠山に出ていたものと同じ月なのだろうなぁ。


霊亀2年(716年)、阿倍仲麻呂は19歳で遣唐使留学生に選出され、翌年入唐しました。そして唐の最高学府で学んだあとは、官僚登用のための試験「科挙」に合格して進士となり、以来要職を歴任することになります。36歳のときには自身の帰国を上申するものの、唐朝は仲麻呂の政治的手腕に期待を寄せていたために、これを却下します。その後の彼はその期待に応えようと努め、玄宗皇帝の更なる信任を得ていきます。年月が経ち、すでに56歳となった仲麻呂は、老いを理由に再び帰国願いを出します。そしてついに許可がおりるのです。

しかし、当時の帰国は容易いものではありませんでした。第一船に乗り込んだ仲麻呂でしたが、折からの南風にあおられ現在の沖縄近海にて難破、ベトナムの方まで流されてしまいます。命からがら長安に戻ったのは出港から2年後でした。そして帰国をあきらめた仲麻呂は、玄宗の死後も唐朝に仕え続け、73歳でその生涯を閉じるのです。


さて『古今和歌集』巻第九「羇旅歌(きりょか)」の部立は、わずかに16首の歌をもって一巻をなしています。旅に触発された感情を主題とするその部立の冒頭部には「もろこしにて月を見てよみける」の前置きとともに、阿倍仲麻呂の歌が記されています。後ろには歌の説明が付け加えられ、そこには仲麻呂の帰国に際し、明州というところの海辺にて人々が送別会をひらいてくれたこと、そしてその夜には月が感慨深く昇っていたので、それを眺めて詠んだ歌だとあります。古今和歌集以来、時代を問わず、数多くの文献に取り込まれてきたこの歌ですが、とりわけ藤原定家の『小倉百人一首』に採歌されることによって、飛躍的に有名になりました。連載第二回では、茶人の紹鴎が和歌の師であった三条西実隆から『詠歌大概』の序を聞き、それを活かして茶の湯の名人になったことを取り上げましたが、江戸時代に書かれた『石州三百ヶ条』には、その考えが具体的に記されています。


「茶道もかくの如く道具は旧きを用ひ、その時節の働きにて心を新しくする也とて、小倉の色紙をかけてより、専ら定家を用ふる也」


この記載によって定家の歌論に共感した紹鷗が、定家の書「小倉色紙」を床の間に用いたことがわかります。加えて『今井宗久茶湯日記抜書』というものの中には、その用いた年月日まで記録されており、天文24年(1555年)10月2日に「床 定家色紙 天ノ原、下絵ニ月ヲ絵ク」と見えることから、定家の書いた和歌が阿倍仲麻呂の「天の原」だったことまで明らかとなりました。


さらに踏み込んでみます。江戸時代において、摂関太政大臣であった近衛家煕の言行をまとめた日記『槐記』に目を向けてみますと、利休が豊臣秀吉を茶に招いたときにも定家の小倉色紙が掛けられ、その和歌はやはり「天の原」だったと記されています。ここで秀吉は、なぜ数多ある小倉色紙のなかでも阿倍仲麻呂の歌なのか、不思議におもって利休に尋ねるのです。返答は次のとおりでした。


「此の歌は日本人が唐にて詠みて、月ひとつにて世界国土を兼ねて詠み尽くしたる歌なれば、大燈、虚堂にも劣るべからず」


「月ひとつ」だけで、誰もが共感できる「望郷の念」というものを思い起こさせてくれるこの歌は、その国の文化の垣根をも越えていきます。それまでの床の間の掛物は「禅」の影響が大きかったために、大燈國師や虚堂智愚などの高僧の書、いわゆる「墨跡」が愛でられてきました。しかし、利休にいわせれば、この仲麻呂の「天の原」の一首は高僧にも比肩しうるものとして高く評価をしています。さらには、茶の湯が定家の思想に多くを学んだ歴史を鑑みれば、定家が選び、そして筆をとった「天の原」は、双方の魅力が相俟った一幅として特に珍重されてきたことでしょう。これこそが、日本が生んだ仮名文字の書が、茶の湯の掛物として用いられた最初の一幅だったのです。


(根本 知)


 

※第九首は、2021年6月21日(月)に公開予定です。


 

うたと一服



奈良時代に唐から伝来した唐菓子「団喜」。今もその作り方を守るお菓子です。


清浄歓喜団(亀屋清永)


(山平 昌子)



 

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