あはれてふ言の葉ごとにおく露は 昔をこふる涙なりけり
−詠み人しらず
心が動かされて 「あはれ」と発する。もしその 「言の葉」の上に降りる露というものがあるとすれば、それは昔のことを恋しく思う涙なのです。
この和歌は『古今和歌集』雑歌下に所収されています。古来、葉の上にのる露のことを「上露(うわつゆ)」といい、儚さの象徴とされてきました。たとえば、『源氏物語』「御法」では、光源氏の妻のひとりである紫の上が、自らの消えかかる命を「萩の上露」と重ねた場面がありますが、このような表現は『万葉集』においてすでに見られます。そしてそれは余命の儚さのみならず、恋心や涙、ときには宝石に例えたものまで様々な表現がありました。
冒頭の和歌も、このような万葉的な露の見立てを踏襲しています。しかしながら、その露がのる葉をあえて自然物ではない「言の葉」にしたところにひとつ工夫がありました。この着眼点の源流には、紀貫之によって著された序文、『古今和歌集仮名序』があったことでしょう。
「やまと歌は、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける」
日本の歌とは、人の心が種となって無数の言の葉になるのだと、貫之はいいます。さらに次のような大意で文章は続いていきます。
「世の中にいる人には関わりあうさまざまな出来事がたくさんあるものなので、心に思うことを、見るものや聞くものに委ねて言い表すのです。花に鳴くうぐいすや、水にすむ蛙の鳴き声を聞けば、生きとし生きる者のなかで歌を詠まない者などいるでしょうか。力も入れずして天地を動かし、目に見えない鬼神ですらしみじみと感動させ、男女の仲も和らげ、勇ましい武士の心まで慰める。それこそが歌なのです。」
その後、和歌の成り立ちというものを神代のころから追っていき、さらに人の世となった歌たちを分類します。そして歌というものは、さまざまな自然現象を見て、世のことわりを重ねてしまう人の心が織り成したものだと説くのです。
さらに和歌の本来あるべき姿というものはどのようなものであるのか、その理想像こそ柿本人麻呂や山部赤人であるとして『万葉集』を掲げます。
貫之は、文章のおわりに次のように述べ、その想いを綴じます。
「たとえ時代が移って、もの事が去りゆき、楽しみ悲しみが行き交ったとしても、この歌の文字は残ることでしょう。青柳の糸のように絶えることはなく、松の葉のように散り失せず、まさきの葛のように長く伝わり、鳥の足跡のように久しく残っているとしたら…。歌のさま、そして言葉の本質を知り得た人は、大空の月を見るかのように古の歌を仰ぎ見て、今の歌というものを必ず恋い慕っていくのです」
和歌というものは心の種が発芽して言葉となったものだと貫之はいいました。それが芽吹くためには「経験」という栄養が不可欠でしょう。そして、その言の葉にしっかりと光を当てることで、そのときの「あはれ」という感動が和歌として表され、実として結ばれていくのです。
この感動は、のちに客観的に感動を見つめ直す態度である「もののあはれ」となり、「幽玄」や、「冷え寂び」「冷え枯れ」、さらには「わび」「さび」へと、時代の求めた価値観としてその姿を変えていきました。
僭越ながらこの連載の最後に、現代を生きる私が詠んだ一首をご紹介させて頂きたいと思います。
「言の葉の 芽吹きののちに結ぶ実は 過ぎしあの日のあはれのかたち」
万葉から続く「あはれ」の美意識は、時代によって形を変えながら受け継がれ、今もなお生き続けているのです。
(根本 知)
※連載の最後に、茶の湯研究家の神津朝夫先生にお話を伺いました。
こちらのページより、合わせてご覧ください。
うたと一服
八雲茶寮さんに、うたをイメージしたお菓子を作っていただきました。
巻き紙をそっと開いて大切な人からのうたをたしかめた、いにしえの人の気持ちが伝わってくるようです。
菓銘 言の葉
八雲茶寮(東京 目黒)
お菓子「言の葉」は、八雲茶寮にて開催する展示「ひとうたの茶席」の会期中、
9月22日(水)より10月3日(日)まで、店頭にて購入いただけます。
*9月27日(月)および28日(火)はお休みです。
表具:パネル表具 青海波紋様銀欄 草花紋様銀欄
同様の作品を、ご希望の歌やお手持ちの裂地で作成いたします。
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昨年9月から1年間を想定して始まった本連載も、無事最終回を迎えることができました。
ご覧いただいた皆様、誠に有難うございました。
今後の活動につきましては、本サイトにてお知らせいたします。
(山平 昌子)
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