月やあらぬ 春や昔の春ならぬ
わが身ひとつはもとの身にして
−在原業平
これは『伊勢物語』の第四段にも登場する有名な和歌です。身分が低く叶わぬ恋をしてしまった男が、想いを寄せたあの人と過ごした思い出の場所に来てみると、彼女は去ったあとで今はもうすっかり変わり果てています。男は泣きながら、月が傾くまでその場で伏せてしまうのです。
月は以前の月ではないのか。春も昔のままの春ではないのではないのか。ただ私の身ひとつだけは変わらぬ身のままなのに…。
『古今和歌集』の恋の部立や、他の和歌集に何度もとられるほど、この歌は評価されました。そして、第五回の連載でも取り上げた室町時代中期の歌僧、正徹(1381〜1459)もまた、この和歌に魅了されたひとりでした。彼は臨済宗の僧でありながら二万首ちかくもの歌を詠んだといわれ、時の権力者であった八代将軍、足利義政にも『源氏物語』の講義を行なっていたことが知られています。また、正徹の書写した『徒然草』は現存する最古のものとなりました。
そんな彼の歌論書に『正徹物語』というものがあります。この中で「ことば一句を残す歌あり」として「月やあらぬ〜」の和歌が引かれています。そしてこの歌に対して「わざと詠み残してある句だけに、その真意を読みとろうとしなければ、特段おもしろくもない歌だ」というような注釈をつけました。詠み残されたのは「今宵逢う人はいなかった」という孤独な気持ちであったとしたのです。
このような言い尽さぬ趣は、のちに「幽玄」と定義されます。当時、藤原定家の歌論と位置づけられていた『三五記』では、歌の姿は十体にわけられ、その第一に「幽玄体」が置かれていました。さらにそれを、月を薄雲が覆う装いを示した「行雲」と、飛雪の風に漂う景色を表した「廻雪」とにわけて説明しました。そしてこれらふたつのようにぼんやりとした情景、つまり、心や詞の外側にまるで影が浮かぶような歌の姿のことを「行雲廻雪の体」と言い表すことにしたのです。正徹はこの考えに依拠し、「幽玄」というものを理解しました。
ここで注目すべきは、『三五記』にあげられた幽玄体の例歌はすべて恋の歌、もしくは恋の想いに近い心情の抒情歌だということです。「幽玄」の母体には恋がある。だからこそ正徹は『源氏物語』を深く学び、傾倒していったと考えられます。彼は『源氏物語』こそ幽玄が極まったものだと語っていますし(『なぐさめ草』)、さらに別のところでは、見目の麗しい女性が物想いにふけて黙っている姿を、歌でたとえ表すことの美しさを説いています(『草根集』)。この物言わぬ様子が、正徹の理想とする「幽玄」のひとつだったのでしょう。
ちなみに、言外に込められた趣というものには当時「余情」という単語が充てられ、また、なまめかしき女性の姿は「妖艶」という言葉で表現されていました。したがって文学史においては、正徹のいうような趣は「余情妖艶」となるわけです。正徹の「幽玄」とは「余情妖艶」、つまり恋の歌の根幹にある官能的な情緒こそ美の源泉だと考えていたのです。ただ想いをそのままに吐露することはせず、言葉の外側に情緒というものを漂わせようと心掛ける。彼は生涯で無数の和歌を詠い、「幽玄」の理想を追い求め続けたのです。
(根本 知)
※第八首は、2021年5月20日(木)に公開予定です。
うたと一服
今年もあっという間に桜の季節が終わってしまいました。花の名残を惜しんで。
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