住みつかぬ旅のこころや置火燵
−芭蕉
旅に生きたことで知られる芭蕉。自ら竹を裂いて笠を自作し、その笠を「最小の庵」だと表現しました。雨風から身を守るのに、わび住まいの芭蕉庵も、旅の笠も変わらないという思いに至った彼は、四十歳から没するまで旅に出つづけました。その旅の姿は、どのようなものだったのでしょうか。
貧しい下級武士の家に生まれた芭蕉の人生に大きく影響を与えた人物に、主として使えた藤原良忠がいます。年も近かった良忠とは主従関係を超えて親しくなり、芭蕉は彼の影響で俳諧を始めました。ともに京都で名の知れた俳人、北村季吟のところへと足を運び、弟子入りを許されるなど、共に切磋琢磨してきた良忠でしたが、寛文六年、二十五歳にしてこの世を去ってしまいます。この経験が「無常」というものを意識するきっかけになったのだと私は思います。
修行の末、三十代後半で俳諧の宗匠となった芭蕉は、文京区関口にのちの名の由来となる芭蕉庵を築きます。やっと腰を据えて後進の指導にあたれるようになった彼でしたが、天和の大火といわれる大火事で焼失し、芭蕉は流寓を余儀なくされました。
人生における二度の強い無常観。この世に安閑の地などなく、それを求めることもまた無意味だと悟った彼は、ついに旅に出る決心をするのです。
「いねいねと人にいはれても猶 喰いあらす旅のやどり どこやら寒き居心を侘て」
今回取り上げる「住つかぬ」の一句には、このような前書きが付されていました。この前書きをもって芭蕉の旅の姿を慮ることができます。去れ帰れと何度も言われても気にせず宿に居座り、居心地の悪さを感じながらもそれにすら侘びの美意識を見出した芭蕉の姿が見えてきます。
この歌で芭蕉は、旅で生まれた心を置炬燵に例えています。当時、瓦製の安物の火鉢はこわれやすいためにやぐらの木枠に入れ、そこに布団をかけて使っていました。囲炉裏がない家庭にとっては、移動式の置炬燵は寒き生活の支えでもありました。あちらこちらへと移動し、ひとどころに落ち着かないそのさまは、旅の心と同じであると芭蕉はいいます。そして同時に、捨ててきた生活の温もりへの憧れのようにも思えます。
貧者になるために芭蕉庵を捨てて旅に出た芭蕉でしたが、人との情だけはどうしても捨てられませんでした。
芭蕉の旅の様子を記した「紙衾(かみぶすま)の記」の中に、芭蕉と長旅をともにした粗末な紙の布団を弟子に与えたときのエピソードが綴られています。紙衾を渡す際に、芭蕉が旅を通して得た「心のわび」を受け継いでほしい、そして「貧者の情」を破らないでくれと伝えます。この貧者とは、芭蕉自身のことでしょう。
生きているという実感を得るために、積極的に生活を捨てていった芭蕉。裸になることで人間の本質が表出するとでもいいましょうか、その結果として露わになったのが他者との共感を追い求める人間の性でした。だからこそ、自身の想いを自然と汲んでくれる者、また、そうではない者がいるのがこの世の常ですが、縁をもった者にはせめて心の熱情で温めてあげられたらと、彼はそう願ったはずです。その心は、まさに置炬燵の例えにふさわしいでしょう。
そんな芭蕉の姿を想像したとき、彼の「わび」とは「旅」そのものだったと私は思います。彼にとって旅をすることは貧者への道筋であり、自分自身が変化するために欠かせない修行のようなものだったのです。
※2年目のテーマを俳諧とするにあたって、茶道江戸千家 蓮華菴十一世御家元、川上閑雪宗匠にお話を伺うことができました。こちらも合わせてご覧ください。
(根本 知)
うたと一服
芭蕉とともに「おくのほそ道」を旅をするような気持ちで、お菓子とお茶を選んでみました。はじまりは、隅田川から。
菓子:桜の里(とらや)
茶:岡野園 一服茶ほうじ茶ドリップパック
表具:置き炬燵 天板、小袖 紗綾形文様に笹松鶴の刺繍、料紙 写真印刷
同様の作品を、ご希望の歌やお手持ちの裂地で作成いたします。
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欲しい茶室を夢想する、気軽なスピンオフ企画が始まりました。
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