見渡せば 花も紅葉もなかりけり 浦の苫屋の秋の夕暮れ
−藤原定家
見渡したところ花も紅葉もここにはない。ただ入り江に佇む苫ぶきの粗末な小屋に、秋の夕暮れがさしている。
この和歌に草庵の茶の湯の理想を見出したのが、『南方録』によって利休の師として伝えられる茶人、武野紹鷗(1502〜1555)でした。かれは日本書道の歴史においても重要な立ち位置にあります。なぜなら、それまでの床の間の掛け物には僧侶の書、いわゆる墨跡を掛けるのが一般的でしたが、紹鷗は茶席において定家の自筆「小倉色紙」を掛けたからです。それは後に利休にも影響を与え、しだいに茶席には歌物を掛けてもよいという風潮となっていきます。
紹鷗はなぜ定家の書を茶席に用いたのか。そこには定家の眼差しに対する尊敬の念があったからだと私は考えます。紹鷗は若き頃、室町きっての文化人であった三条西実隆から歌道の極意ともいうべき定家の『詠歌大概之序』の講義を聞き、茶の湯の極意を悟ったといいます。
「情(こころ)は新しきをもって先となす。 」
和歌の心は、つねに人がいまだ詠んでいない情を求めてゆくものです。
「詞(ことば)は旧きをもつて用ゐるべし。 」
しかし扱うことばは、その道の先輩や先学の者の用いるところを出てはならないといいます。あえて分かりにくい言い回しにしたり、格好ばかりの造語などはもってのほかです。誰もが知る、平易なことばを用いながらも、それまで誰も詠まなかったこころを詠む。はじめに挙げた定家の「見渡せば〜」は、まさにそれを体現した一首でした。
「花も紅葉もなかりけり」というのは、花や紅葉の美しさを多数詠ってきた古今和歌集の、ある意味での否定だったのでないかと、私は捉えています。古今集以後も多くの勅撰和歌集が編まれてきましたが、同じような視点で詠まれたものや本歌取りも多く、「新しき情」を詠み込むのは容易ではなかったようです。そんな中、定家は花や紅葉を聞き手にイメージさせながらもそれを取り除き、そして粗末な小屋に秋の夕暮れがさす情景に 新しき情を詠み込んだのです。
ところで、国文学研究では「さび」というものを、苦悩であったものがその後、空寂感へと移りゆくさまと説明しました。「空寂」とは煩悩を消し去った悟りの境地のことですが、定家の苫屋に向けた眼差しはまさにそれを想起させます。31歳のときに堺にて剃髪し、その後は「紹鷗」を号して茶の湯に専念していったかれは、きっとこの定家の思想を心に留めて茶の道を邁進していったのでしょう。
(根本 知)
※第三首は、2020年11月23日(月)に公開予定です。
うたと一服
静かな秋の夕暮れを思いながら、落ち葉のような飴細工を選びました。繊細なひとひらが、舌の上で儚く溶けていきました。
有平糖「照葉」(紫野源水)
(山平 昌子)
表具:薄墨染め鳥の子・緞子
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