明くる夜の月と花とのあはれをもただおしこめてかすむ春かな
−正徹
夜明けの月と、白んだなかに見えてくる花。それらに心が動かされても、霞のかかった春の情景は、それをただ静かに押し込めていきます。室町時代中期、臨済宗の僧であった正徹(1381〜1459)はこのように詠いました。
この歌に感化されたのが同じく室町の連歌師、飯尾宗祇(1421〜1502)です。彼は正徹の歌を本歌とし、その歌の面影は残しつつも自らの感性を次のように詠み上げました。
「かすめただ咲きも咲かずも春の山 ただおしこめて桜とをみむ」
ただただ霞んでしまえ、咲こうが咲くまいが春の山よ、そのすべてを押し込めて桜と眺めよう。宗祇は具体性を静置し、桜にのみ焦点をあてていきます。ただ「咲きも咲かずも」の表現を取れば、この桜もまた、実際に見えているものだけに限定できない含みがあります。華やかな景色に目を奪われるのではなく、俯瞰で捉えることでむしろ際立つものもある。その客観的な視点の広がりこそ、この歌の魅力だと思います。
さて、正徹の詠み込んだ、感動をそのままに吐露しない歌の姿は、和歌の形式を重んじる宗祇にとって心に響くものがあったに違いありません。宗祇は、形式主義を掲げた当時の一大流派「二条派」の流れを汲みます。その特徴は、連歌の表現というのはすべて、過去の和歌の中にその源が求められるというものでした。
伝統を保守し、ありのままの情感を詠わないことで表現を磨いていこうとする二条派によって、宗祇の歌の姿勢は形作られていきました。彼の著した歌論『老のすさみ』のなかには、心の新しさを求めようとするが故に、かえって品位が低くみえることがあると警鐘を鳴らす記述も見られます。また、本歌を取ることに対しては、和歌に使われている言葉を縁にして別の心を詠う方法と、もしくは、その和歌とまったく同じ心が得られる場合があることについて言及しています。
室町時代、先人の歩んださまざまな芸能の道は「型」として継承されました。二条派に立つ宗祇は、古典にある表現の源をすくいあげることを旨としましたが、そこには感動を忘れ、かえって型にはまってしまうという恐れがともないました。教えを鵜呑みにし、ただ古典になぞらえれば良いのだと勘違いする者も当然出てきたことでしょう。歴史の歌論を紐解けば、二条派の形式主義を否定するものも散見されます。
けれども私は、宗祇というひとは先人の歩んできた道を一途に敬い、自身もそれを追うために常に謙虚だったのだと考えます。彼の歌論のなかには、和歌の心がわかっていないままに、古事や由緒などをただ取り出すのは、実に口惜しいことだと書かれたものも残っています。その姿勢を想うとき、私は『徒然草』の教えが頭に浮かびます。
まず、すぐれた表現というのは自我を極力抑制し、感動をひとつの「型」に入れて純化するところにこそ生まれると兼好法師はいいます。そして、いくらやっても技芸が未熟な者がいたとして、一方、素人でありながらも器用で卒なくできてしまう者と比べたとき、それでも必ず勝ることは「慎んで軽々しくしない」ことだと説きました(第187段)。
宗祇は多く旅に出たことでも有名です。大名とのつながりもあったため、各地に招かれて連歌を広めていくのが表向きの理由でしたが、本来の目的は、和歌に詠まれてきた名所、つまり歌枕というものを回想し、自然美と古典の表現を追体験するところにありました。この旅もまた、彼にとっては「型」の学びのひとつだったと私は考えます。ここにも、宗祇の歌に対する謙虚な姿勢を見ることができます。
そして彼は、三条西実隆と親しくしました。宗祇の意志は、古今伝授として実隆に継承されていくのです。
(根本 知)
※第六首は、2021年3月20日(土)に公開予定です。
うたと一服
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